おかえりモネ・第8週”それでも海は”考
なぜか周辺(リアル・ネット双方)でさっぱり触れられない、NHK朝ドラ「おかえりモネ」。
週ごとになにかしらテーマを設定する構成なのかな、という印象をもって見ているドラマなのですが、先週第8週は”震災で遺されたあと”について取り組んだ週だったように感じてる。
表現しようとしたのは「強いショックを処理しきれていない人」?
震災で大きなショックを受けた人、特に大切な人を失った人の中には「亡くなった(あるいはまだ見つかっていない)人」と会う体験をする方が少なからずいるそうです。
↓例えばこんなの
おそらくその多くが「非常にリアルな夢や白昼夢」なのでしょう。ただその”現象”の中で見るものは、本人は無意識に抑え込んでいるまだ整理のできていない記憶。それらを脈略なく再構成したものが本人には制御不能なタイミングで唐突にやってくる。
これを劇中人物、特に”大人たち”に割り振って再現を試みたのが、第8週の”それでも海は”だったのではないか、と。
もともと、このドラマは今のシーンと回想シーンが頻繁に行ったり来たりする。この週はそれを特に意図的に「それがいつのことなのかわかりにくい」演出をわざとしているように感じた。
”変わらぬ今”を演じる老人と”変えられぬ過去”から離れられない大人
それを踏まえて、老人勢にはあえて「プライバシー皆無の田舎をそれなりに謳歌する人たち」を演じさせた。
現実問題として、強く傷ついてしまった人にはそう易々と手を差し伸べられない。相手のプライバシーやプライドを考えればさらに。
そこを「まあ…田舎にプライバシーなんてないしさ」という(半分くらいの)事実を老人勢に表現させることで、”大人”たちがお互いの深い所にずけずけと踏み込んでいくことへの抵抗感を薄れさせた。
その上で”大人”たちには、「亡き人」を本人たちがどう思っていたのかを表現した。それは、ある人にとっては憧れていた人であり、ある人にとってはその明るさや交友に感謝しつつもある種の嫉妬心も抱く相手であり、ある人にとってはその人のために働くという目的なくしてはまともな生活すら営めないような相手だった。
その人の大きさを踏まえた上で、子どもたちには「未来に向けて前を向くしかない」と語らせた。
もしかすると…これらの気持ちが一人の中に混在していた状態で過ごしている人が今もいるのでしょう。それを作中人物に割り振ることでできるだけ整理して表現した週だったのかな、と。
「遠野物語」の時代を問わぬ普遍性?
東北の怪奇譚を集めたものとして有名な遠野物語。
その話の少なからずが、内陸の遠野界隈と沿岸の三陸部を行き来する馬曳きから聞いた昔話だったりするのですが、津波に関してふれたものは99話の1つだけです。
ある夏のはじめの晩に用をたそうと、小屋から離れた便所に立って波の打ち寄せる渚を歩いていると、霧の立ち込める中から男女の2人連れが近づいてくるのに気がついた。女は津波で失った妻であることに気づき、福二は思わずその後をつけ、船越村へ行く岬の洞穴があるところまで追っていった。妻の名を呼ぶと女はこちらを見て笑い、男を見やると、男の方も同じく津波で亡くなった、聞くところによると自分が婿に入る前、心通わせていたと聞き及んでいた同じ里の男であった。「今はこの人と一緒になっている」と妻が言うものだから、「子供がかわいくないのか」と問いかけると妻は顔色を変え、泣き出してしまった。死んだ者と話しているようには思えず、ただ足元に目を落として立ち尽くしていると、再び男女は足早にその場を立ち去り、小浦へ続く道の山陰を廻ると姿が見えなくなってしまった。
遠野物語の発表は明治三陸地震の十数年後。その気になればもっとそういう話があったろうに1つしか話を収録せず。そして、この体験をした人物の器の微妙な小ささが露わになる話でもあって。その意図がいまいち読み取れなかった。
ただ…あえて行間を広くすることによって、読み手のいる時代に即した想像をふくらませてもらう意図があったのかな、と。
「聞くところによると自分が婿に入る前、心通わせていたと聞き及んでいた同じ里の男」という一行を現代風に表現すると、もしかしたらおかえりモネ第8週のようになるのかもしれないし、実はもっとドロンドロンの泥仕合が繰り広げられたのかもしれない(笑)