野ぶたのつぶやき

野ぶたの日々を淡々と

「精神薄弱者施設・6年間のアルバム 生きとるでぇ」を読んで

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1981年に刊行された本。精神薄弱者施設(今でいう知的障がい者施設)に勤めたことのあるフリーカメラマンが、写真と共にそこでの経験を語った一冊。

当時としては、写真入りの本というのは珍しかったのでしょう。そんなに厚くもない一冊が、当時の価格として1200円というのは物価水準を考えると正直お高い。ただ…写真があると、そこで取り上げられている人たちの姿が非常にイメージしやすくなる。今のように気楽に写真を撮れる時代でもないので…そういう意味での資料的価値もある一冊。

 

ざっと40年前の本。変わっていることも多くある。それこそ「精神薄弱者」という表現が使われなくなり、「今でいう知的障がい者…」という断りを入れないと意味すら通じなくなってしまったところなんかは大きな違い。

また、在宅生活や地域社会参加がすすめられ、集団生活での介助というのが王道ではなくなったことも違いではあると思う。

 

ただ…障がいをもつ本人が抱えている大変さは変わりがないしそれを取り巻く社会環境もそこまで大きく変わっているわけでもないので、起こるトラブルはそれほど変わらない。そういう意味で、現状をちょっとだけ違った視点から見られる一冊となった。

 

個人的に気になった点は2つ。1つ目は「当時から”障がい者”も社会を知りたいとは思っていたんだ」ということ。来訪者を「だって、めずらしいやんか(p.47)」という好奇心で歓迎する。施設内作業で得られた小遣いで買い食いを、そして集団旅行することを心から楽しむ。著者はそれを「施設とは閉鎖的なものだな(p.49)」という解釈もしているのだけど、今のある種の知的障がいを抱えている人間が社会に興味を持っていることは変わりない(それがインターネットだったりするもんだから危なっかしくて仕方ないが…)。

上から目線で言えば…そりゃ視野は狭いし、頑なに見えてしまう行動も決して少ないとは言えない。でも、見える範囲より少しでも広いものを見ようとしている。それは昔も今も変わらないし、障がいを持つ人も(いわゆる)健常者も変わりはない。

 

もう1つ気になったのは「閉鎖した施設に入れておくことの是非」。

最近はかなり見かけなくなった先入観に「知恵の遅れた人たちに対して、天使のようだとか、仏様のようだという言い方(まえがきより)」がある。

先入観の部分は大きいだろうけど、それはある部分正しかったと思う。知的障がいを抱えて知的障がい者施設にいる人たちに対して「自分たちは少なくとも寮生たちより上位にあるとほとんどの人は信じ切っている(p.48)」からその人たちに危険さを感じ敵意を向ける必要はない。そして、(障がいの有無に関係なく)敵意を向けられることなく生きた人は自ずと人に敵意を向けることは少なくなり「やさしい」印象を持たれる。

文中にあった「多くの寮生にとって、決して楽しい思い出ばかりでないはずの家庭や故郷なのに、わが家を思う想いはゆるぎなく強い(p.50)」という表現を聞いて、以前いた職場の寮に入っている子供が、新型コロナウイルスの影響で急遽帰宅することになったとき「なんとかならないのか?」と保護者から電話が複数あった、という話を思い出した(ちなみに、かけてきた保護者の子供にはさしたる障がいはない)。

要らぬ敵意を向けられない閉鎖空間の施設の方がよほど居心地がいい、そんなケースは障がいの有無に関係なく存在していて。それを基本的には否定してしまった「ノーマライゼーションな21世紀」ってほんとに正しかったのかな?幸福だったのかな?という気持ちが湧いていた。

 

社会を知りたい、それは社会動物なら普遍的な欲求なんだと思う。

その欲求を満たす一番いい方法は社会に参加すること、それにも異論はない。

ただ、社会に参加するって、”普通の人”が思っているより”普通でない人”にとっては大変で。そこに傷つきすぎてる人が結構いる。なら、傷つきにくい”小さな社会”を作ることはそこまで悪い話ではないんじゃないだろうか、と。

前の職場にいたときから、ずっと考えていた疑問を蒸し返されたような気になる一冊でした。

 

前にいたところより街なところで、同じ仕事をやる。つまり、理屈抜きで「ノーマル」にしておかないと、結果的に困るのは本人、という環境になる。

この疑問を…どう解消するのかが、次の職場でのテーマなんかもしれません。