野ぶたのつぶやき

野ぶたの日々を淡々と

「ニンゲン嫌い」にもいろいろある ~筒井と星の比較を通して~

往年のSF作家さんが書いたエッセー、ってのを続けて読みまして。

『創作の極意と掟』のレビュー 筒井康隆 (seismanさん) - ブクログ

『きまぐれ博物誌』のレビュー 星新一 (seismanさん) - ブクログ

二人とも「人からえらい目にあった」という経験・記憶とそれに伴う問題意識が、作品を創る原動力になってる感がある。でも、そこから生み出されてる作品は結構違って、それを好む、あるいは嫌う人はばっさりと分かれる。それがなによりおもしろかった。


二人とも1対1では人に負ける要素のない方。なんらかの集団にやられてる経験が問題意識の根本にあるのは間違いない。

それを元に星新一は「集団とはなんぞや?社会とはなんぞや?」という問題意識を持ったんだと思う。一人一人では無茶をやらないのに集団ではすさまじいこと・愚かなことをやる事例は多い。そこに注目した作品が多かったし、私自身そういうところを気に入っていたし今も好きなんだと思う。

一方で、筒井康隆は「集団で悪さをするんだろうがなんだろうが、やってるのは人に変わりはない」とばかりに、人の内面をいい面・悪い面双方をえぐる作品を多く創った。


昔の自分は、筒井康隆の「人の心をえぐってくる感じ」を「自分もえぐられてる」的に感じて抵抗しちゃったんだろうな、と思う。どんだけ愚かなことをやっていても『エヌ氏』や『エフ氏』がやったことにして自分と登場人物に距離感を保ってくれる星新一の方がはるかに飲み込みやすかったんだと思う。

 

そして今の自分は、いろんな問題を「社会のせい」ではなく「人のせい」にしたいんだろうな、と思う。

「この星のどこにも、自分にとって理想的な集団・社会は存在しない」、無駄に歳を食ってそれがさすがに分かってきた。それは社会が悪いのか、それとも自分が悪いのか、そんなのはこの際どうでもよい。「そういうものはない」ことを悟り「どこの集団とも深くお付きあいしない生き方」をするしかない、そう思うようになった。

でもなんとか人には希望を持ちたい。今後何百年生きても「集団・社会のいいところ」を感じることはないだろうな、と思ってる自分ですら、「人のいいところ」を見る機会はそれなりにあった。そんないいところを盗みたい、そう思ってる。


筒井康隆星新一がいい文章を書く、なんてことは日本語さえ読めれば誰でもわかる。私だってそれぐらいは分かる。

今自分が知りたいのは「そんな筒井や星がどんな考え・感性でモノを見ていたのか」であったり「自分が評価できてなかった筒井作品を、評価できてた人はどんな考え・感性で見ていたのか」なんだと思う。


まぁ…創作物をレンズや鏡のようにして見るようになったんかもしれませんな(苦笑)