野ぶたのつぶやき

野ぶたの日々を淡々と

火怨・北の英雄 アテルイ伝「最終回 最後の願い」

歴史が必ずしも「右上に進んでいくとは限らない」ってことを実感させられた場所の一つは、秋田県鹿角市の大湯環状列石だった。

 

「雑誌ムー」的なトンデモ文脈の中で紹介されがちな環状列石ですが、要は太陽暦に基づいたカレンダーでしかない。それよりも強烈な印象を受けたのが、併設する展示施設に展示されていた「アスファルトで補修された出土土器」。縄文後期に秋田県沿岸部の産油地から水運でアスファルトを交易で得、それを活用していたらしい。

縄文後期の秋田の人は、「征服した土地から”燃える水”が来た」と歴史書に大書きした大和政権より”石油”を理解して使っていた。そりゃ、総じて見れば文化的にも技術的にも大和政権の方が縄文期の秋田よりも高かったでしょうが、すべてがよかったわけでは決してなかった。ちょっと考えれば当たり前のことなんですが…それを強く感じさせられた。

 

この頃から「勝った側の書いた歴史」に明らかな違和感を感じるようになった。

大阪生まれ大阪育ちのものにとっては、実のところ「勝った側の書いた歴史」で違和感を感じることは少なかった。中世までは”文化技術の中心地にして発信地”だった近畿が周辺に支配地を広げていく過程は、「進んだものが遅れたものに勝つ」過程と取るとすんなり受け取れるものだった。

東北に住んで「どうもそうとは言えないぞ」という事象はちまちまと見にしていたのですが、大湯環状列石の資料館を見て「これはなんか違う」と明確に意識した。そしてあの頃を境に、自分の中での”日本”は「ヤマトが作った政権が最終的に平定した地域」ではなく「日本語を共用語とし経済圏を同じくする多地域・多文化共同体」になった。

 

それは「進んでる方が勝つんなら、別に戦わんでも決着つくやろ」という疑問の裏返しでもある。

語弊を恐れずに言えば日本は百年ちょっと前、日本よりも明らかに近代化に遅れ政治的にも混乱した地域に攻め込んで行き、なぜか勝てなかったわけです。反対に千年以上前の日本は大陸よりも文化的・経済的・技術的にも明らかに劣っていたにもかかわらず、なぜか制圧されることはなかった。そして、ヤマトは蝦夷の征伐にかなりの年月と費用を費やした。

 

「進んでいること」で国や地域の優劣をつけることはできても、勝敗をつけることはできない。国や地域間の力関係というのはいろんな物差しを使ってはからないと分からず、いろんな物差しを使ったつもりでもまだはかり残しがあるものらしい。

そんなはかり残しを「日本と別の国・地域」から見いだそうとすると言葉や文化理解の問題が出てくる。しかしそれを「近畿と他の地域」から見いだそうとする場合はこれらの問題は格段に小さくなる。私にとっての「東北諸文化」や「東北史」への興味はこういった背景の上に成り立っていて、「そりゃ東北と近畿の文化はちゃうとこもぎょうさんあるけど、結局は人それぞれやから気にしすぎたら負けやで」というのが現時点での結論だったりする。

 

…まぁ…”アテルイ”という肴をアテに4週間ほんと楽しませてもらった、というのが正直な本音でしょうか?

少々罰当たりな感じはしますが…アテルイも草葉の陰で苦笑いしてくれていればありがたいかな、と…。